歴史講演会「城下町の中世から近世―小谷城下から長浜城下へ―」

 今日は午後から長浜市内にて開催されました歴史講演会「城下町の中世から近世―小谷城下から長浜城下へ―」に参加してきました。

 講師は山村亜希先生(京都大学教授)です。講演会でも紹介がありましたが二度ほどブラタモリにもご出演された、歴史地理学をご専門にされている先生です。

 

 まず、戦国城下町と近世城下町ということで時系列的な説明と具体例の説明がありましたが、長浜においてはいうまでもなく戦国の城が小谷、近世の城が長浜ということになります。戦国期以前の城は自然の地形や寺院など既にあるものを上手に生かしてつくられたものがほとんどですが、近世からはそれ以前の「しがらみ」を断ち切るべく、何もなかった更地に城下町もろともに城が人工的につくられました。

 かつて小泉政権で「抵抗勢力」という言葉が使われましたが、近世の城をつくる、という土木事業は中世当時の抵抗勢力を封じ込め、あらたな世を切り開くというアピールも兼ねたものだったのでしょうね。

 

 城下町の話で気になったのは長浜城下の「タテ町」「ヨコ町」の説明です。長浜城の外堀に沿う形で南北に

伸びる通りに面した町がタテ町で、長浜城下でいち早く建設されたとのことですが、おってそのタテ町を埋める形で、外堀に直角に伸びる形でできたのがヨコ町とのことでした。他に長浜城下町自体が4期に分かれて建設・拡張されたとのことでしたが、当時信長の配下にあった秀吉の財力では一気に町づくりを行うのは困難であったということでしょうか。そもそも建設された時期的も近世城下町のはしり、ともいうべき時期ですしね。

 

 また長浜城下町の特徴の一つとして「背割水路」の説明がありました。なお、私自身はこれまで「背割排水」といっていましたが実際は「水路」の方が正しいような気はします。

 その背割水路ですが、オリジナルの長浜城下町の区域内にはない(未施工)とのことで、米川より南の新たに追加工事で開発された(天正9年?)区域のみに存在すると指摘されました。天正初期には都市計画的にも背割水路の発想はなく、全国的に見ても長浜に残る背割水路はかなり早い時期のものだということです。そうえいば土地家屋調査士会で調査した際も近江八幡や彦根の背割水路は断面図で見る限り長浜のものよりも深く大きく、立派だったことを思い出しました。また町ごとの区域の道路と反対側の境界線が直線的でなく、ガタガタになっている町割りが多いのですが、直線的に整備された背割水路の存在が境界をはっきりさせたとのことでした。そうすると背割水路の設置は近世初期における町ごとの土地境界の明示事業であったとも言えますね。

 

 なお、会場はほぼ満員で感心の高さがうかがえました。これもブラタモリ効果?でしょうか。長浜の街の成り立ちについて大変勉強になった講演会でした。

 

 

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