山林境界の淵源に迫る―渡辺尚志著「百姓たちの山争い裁判」を読む―

 先日、朝日新聞の書評欄を読んでいましたら、渡辺尚志先生(一橋大学教授 日本近世史・村落史)の新刊本「江戸明治 百姓たちの山争い裁判」が紹介されていました。評者は朝日新聞の本社編集委員の方のようでしたが、土地家屋調査士として、土地境界や境界紛争など気になるワードも散見され、同書に興味を持ちました。その後、空いた時間に立ち寄った書店でたまたま手に取る機会があり、購入してみました。

 

 昨今、所有者不明の土地が九州よりも広いということが言われています。かたや土地境界に起因する紛争も数多くみられます。そんな時代だからこそ、明治時代の土地境界争い、特に山間部における明治時代の境界画定とは如何なるものであったのか、その実像を理解することは、今日の私たちにとっても大切な意味を持つと思います。

 

 本書を読んでの率直な感想として、思うに近代以前はマチにはマチの、ムラにはムラの、そしてヤマにはヤマの、それぞれ独立した、侵しがたい「論理」が確立していたのだろうという考えます。それを押しなべて、一律に平準化しようとしたのが明治政府の近代化政策で、それに抗ったのがそれぞれの地を生業にしていた民衆です。そして、その抵抗の痕跡といいますか、ダイイング・メッセージのようなものが、実は現在も、そこかしこの土地境界(線)に形を変えて残っているといえるのではないでしょうか。例えばその一例として不自然なまでに直線的な山林の土地境界線、実際はいわゆる机上分筆的なものとは思いますが、これは「ヤマの論理」を体現した好例でしょう。

 

 なお、私も普段から利用させていただいております滋賀県県政史料室で整理されている明治期の滋賀県行政文書のデータを参考にしますと、あくまで印象ですが明治期の一番多い紛争事件は水(農業用水)に起因するもの、次いで境界(山林)に起因するものではないかと思われます。ただ、ここでいう明治の境界紛争はあくまで集落単位での紛争であることは理解しておいてください。

 

 下にその所蔵データの一部を参考までに挙げておきます。境界の証拠書類として正徳や文久といった年号の古文書がみえます。また地券の再交付(所有者の更正か?)や大審院への上告など、興味深い文言が並んでいますが、こんなデータが今もたくさん残っています。

 

 なお、これから下は私が同書を読んで山林地における土地境界の淵源を理解する際に大変参考になるな、と思った箇所を抜き書きしてみました。P―、は本書のページです。本書の目次でいいますと以下の第四章と第五章からがご紹介させていただく中心となります。個人の感想のようなもので整理も行き届きませんが、よろしければご一読ください。

 

序章  江戸時代の山と村

第一章 日本人は山とどう付き合ってきたか

第二章 百姓同士の山争いを、武士がバックアップ

第三章 東北の村の山争いは、江戸でも進行していた

第四章 明治維新で山争いはどう変わったか

第五章 争いを経て守られた林野

 

P194

明治7年11月に、明治政府は「地所名称区別改正法」によって、全国の土地を官有地と民有地の二種に区別したが、この時点で存在した入会地は「所有の確証」がない限りすべて官有地に編入されることになった。

【中略】

明治9年1月に「山林原野等官民有区分処分方法」によって官有地と民有地の区分の具体的な基準が示された。そこでは、文書等による人民所有の確証が得られない土地は官有地とするものとされた。総じて民有地の認定基準はたいへん厳しく、その結果入会地の相当部分が官有地とされてしまったのである。これが、地租改正にともなう、山林原野の「官民有区分」である。

この官民有区分事業は、明治14年におおよその完了をみた。ただし、官民有区分は官と民の所有区分は明確にしたものの、当初は江戸時代以来の入会慣行についてはあまり問題にしなかった。そのため、農民たちのなかにも、たとえ入会地が官有地にされても、従来通りの山野利用が許されるならばそれでもよいと考える者が多かった。

 

<コメント>

明治9年の官民有区分の際の民有地の認定基準は厳しいと知ってはいましたので、所有権については多分そうだろうと思いましたが、利用権については当時の農民の中ではおそらく江戸時代の慣習のまま継続されるという認識があったのでしょうね それがその後になって想像以上に山林監視が厳しくなり、紛糾の遠因となったのだろうと思います

なお、滋賀県では県令より「共有森林分配の告諭」が明治14年(1881)1月18日に出されています 当時、東北は関西と違って多くの共有林が官林に指定されてしまったと仄聞していますが、何といいますか、人柄?が素直だったからかも知れないですね

 

P197

【村界で係争中の山口村からの訴えの一部】

今般、地券(地租改正のとき土地所有者に発行された土地所有の権利証)発行につき、各村とも地引帳・地引絵図(土地台帳と図面)を提出するようにとのお達しがありました。その際、田麦野村が提出した絵図面に、山口村の領域内にある官林(江戸時代の領主の御林を引き継いだ国有林)など数か所が田麦野村の領域として記載されているとの噂がありましたので、御役所で絵図面を確認しました。すると、噂は本当でした。

【中略】

(これを)捨て置くわけにはいかず、田麦野村に掛け合いました。すると田麦野村側は「問題の山野が残らず山口村の領域であることは間違いないが、田麦野村の領域内にある官林の実際の面積が、本来あるはずの面積よりも少ないので、山口村の領域内にある官林を田麦野村の官林として記載したまでです。

【中略】

明治維新によって政治体制が一新されたのを幸いに、昔からの仕来りを破り、他村の領域内の林野を奪い取ろうと目論んでいるのです。

 

<コメント>

これは境界紛争で係争中の、山形県内のとある村落の住民の証言の一部ですが、壬申地券地引絵図で記載された村界が、隣接する他村の境界を侵食していた、という内容です たしかに壬申地券地引絵図には隣接する他村の代表者などに確認(押印)を求めている節はないので、これを機に既成事実を作ってしまおう、という気持ちは理解できないではありません しかもその根拠を官林の実際の面積が帳簿面積より少ないので、と他に理由を擦り付けるあたりさすがだなあ、と感心?しました

 

P213

留山、薪山は、それまで売買・譲渡などがなされた形跡がないという理由で、明治11年11月に官林に編入された。しかし、両村ともそれに対して強く反対した形跡がない。両村にとっては、官有・民有(村も民に含まれる)の区分よりも、そこに生えている草木の用益権の方が重要だったのである。そして用益権を確保するためには、まずもってそこが自村の領域でなければならなかった。そのため、両村の領域の境界を巡って鋭く対立したのである。

 

<コメント>

留山は普段は伐採をせず、飢饉などのいざという際にしか木を切らない山だと考えますが、ここでも先にふれましたように所有者が官有・民有かは二の次で、用益権こそが大事であり、その用益権を確保するには自村の領域である必要があったとの指摘ですね。

そもそも、留山は売買や譲渡をしないのが前提の土地ですから、それを理由に官林に編入、というのはムラの最後の生命線を立ち切ってしまうことになりかねません。戦前の大恐慌の際には東北の農山村の疲弊が社会問題となりましたが、その遠因になっていたのかもしれませんね。

 

P231

和解を受けて、明治32年6月20日には、山口村から山形県知事に対して、留山と薪山の「保安林解除申請書」が出された。

【中略】

山口・田麦野の争いが終結した以上、国としても政治的意味合いの強かった保安林指定に固執する必然性はない。そのため山口村の申請を受けて、留山・薪山の保安林指定は解除され、自由に利用できる山となった。

 

<コメント>

保安林の指定は森林法に基づいて、実際には地形や植生を踏まえ、土砂の流出を食い止めたり、水源の涵養を目的としてなされていると思いますが、明治期は政治的な意味合いで指定がなされていた、ということでしょうか?知識がないので詳細は分からないのですが… 係争地は両成敗で保安林にしてしまう、といったことがあったのかもしれないですね 何分、登記地目に「保安林」はありますが、山間部の登記を閲覧すると見かけることがあるかな、という程度の認識でしたが… 保安林の指定の経緯を詳しくみていくと、時代背景などが見えてくるのかもしれませんね

 

P239

江戸時代には、隣り合う村同士でも、同じ場所を違う名前で呼んでいた。たとえば、同じ川を、山口村では押切川、田麦野村では大柳川と呼んでいた。さらに、両村の間では、村の境界の位置についての認識が全く異なっていたのである。

江戸時代には、それでも大きな問題は起きなかった。むしろ、両村が村境や権利関係を曖昧なままにしておくことによって、深刻な衝突が回避されてきたともいえる。「触らぬ神に祟りなし」である。それが、明治政府の地租改正と林野の官民有区分政策によって、境界線や所有権を明確化する必要に迫られたために、争いが起こったのである。

 

<コメント>

村によって、場所の呼び方が違っていたくらいですから、境界線が不明確であった、などというのはある意味当然なのかと思います または、両村で重なっている箇所については意図的に呼び方を変えて、衝突を回避していたのかな、という気もしないではありません

 

P243

両村が主張の正当性の根拠としてあげたのは、以下のようなものであった。

1 「官林帳」や「下草役氷」の上納にかかわる文書など、領主との関係において作成された史料

2 村々で自主的に取り交わした議定書類(安永年間1772-1781)に山口・田麦野両村が取り交わした議定書)

3 係争地に自村民の耕地・私有林が存在していること

4 自村が境界だと主張する場所に、境界の目印としての境塚が存在すること

すなわち、江戸時代以来の証拠文書と現地の状況の双方に基づいて、互いに自らの正しさを主張し合ったのである。明治時代の裁判は、江戸時代の山利用のあり方を前提としていた。

 

<コメント>

中世以来の湯起請や鉄火起請は第一章においても紹介いただいていますが、そうした神託による紛争の解決方法から、現代的な証拠に基づく、論理的な解決方法への転換が江戸時代に起こったようです。滋賀県でも滋賀県県政史料室所蔵資料の一覧を拝見しますと古くは室町時代の境界に関する古文書を提出し、証拠にしている事例もありました。全国的に一般的な手続きであったものと思われます

 

P244

両村の争いは、そこが官有か民有かという所有権をめぐる争いではなく、そこがどちらの村の領域に属するかをめぐるものだったということである。山野の官民有区分も村にとっては重要ではあったが、隣村との境界の方がさらに重大事であった。村の領域とは、官有・民有とはレベルの異なる、もう一つの所有に関する問題だった。どこまでが自村の領域かというテリトリー争いは、村人たちにとってけっして譲ることのできない大問題だったのである。

 

<コメント>

山争いの焦点として、自村の領域がどこまでか、ということが一番大事で、所有権の帰趨は二の次だった、ということです。私は境界が輻輳、もしくは完全に重複していた箇所も江戸時代の山林地では珍しくなかったのだろうと考えます。そのあいまいできたはずの慣例・慣習に無理やり線を引くことを強要したのが明治政府の近代化政策ですが、村民や現実の利用形態とのかい離が埋まらなかったということでしょうか。

 

P257

 江戸時代以降の山争いは、証拠と論理に基づく裁判闘争が基本であり、非暴力的な論争だった。

山口・田麦野両村の山争いの結果について、山口側は前述のように自らの「勝訴」だと認識していた。他方、田麦野村側も自らの「大勝利」だと考えていた。双方とも自分たちが勝ったと思っていたのである。

これは、お互い自分に都合のいい解釈をしたと言えなくもないが、一面では双方ともそのように主張し得る程度の成果は得られたということでもあろう。「勝訴」であれば、後に不満やしこりは残らない。「雨降って地固まる」ということもある。山口・田麦野両村は裁判では激しく争ったが、立派に落としどころを見つけたといえよう。こうした「領有権問題」解決の知恵は、今日においても示唆的であろう。

 

<コメント>

ここで重要な点は両村が「勝訴した」と感じた点だと思います。現在でも境界確定訴訟は非訟事件に該当しますので、本来は勝訴も敗訴もないわけですが、境界問題という今後とも一定の関係性を持ち続けることが前提の事件では、両者の「気持ち」を大切にすることは本来の訴訟の内容以上に重要なことのような気はしています。そうした点で、土地家屋調査士として今後わが国でADR(裁判外紛争解決手続)を普及推進するに際して、大いに学ぶべき事例であり、教訓であると考えます。

 

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