人文地理学会第156回歴史地理研究部会での発表報告について

 

 

「人文地理」第71巻第4号が先ほど届きました。

 少し前のお話になりますが2019年8月31日、京都大学人間・環境学研究科にて開催されました人文地理学会第156回歴史地理研究部会にて発表させていただきました件につき、掲載がありましたので大変興味深く拝読させていただきました。今更ながらではありますが、こうした場で発表させていただくことができ、緊張もしましたが大変勉強になったことを思い出します。

 

 私の発表と、当日もコメントを頂戴しました岡本訓明先生のコメント、さらに司会記録をおつとめ頂きました山村亜希先生の討論のまとめについてはこちらの方に掲載させていただきますので、よろしければご笑覧ください(私の発表分については下記↓にも掲載させていただきます)。

 

 「人文地理」の中で、研究部会の活動実績についてもご報告があり、歴史地理研究部会の活動の概要と展望について、その中に「歴史地理学的視点の有効性の提示」というテーマについて言及がありました。たまたま上記の第156回については参加者が34名ということで、(私自身の)予想を超える参加者数がありました。これは(私以外の)ご報告者の方のおかげとは思いますが、それにしても地理を歴史的に捉える視点について一般的にも関心が高いことの証左であったような気はします。

 僭越ながら、今後の歴史地理(学)は潜在的には必ずある社会からの関心や興味を的確にすくい上げるとともに、歴史地理の知見や方法論、アプローチの手法を従来の文化や教養といった枠にとどまらず、例えばビジネスシーンにまで広げていくことができるかがカギではないでしょうか。

 

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2019年8月31日 一般社団法人 人文地理学会歴史地理研究部会報告

 

道路(軒下地)からみた官民地境界の変化―滋賀県大津市を事例に―

要旨

 

報告者 西村和洋(滋賀県土地家屋調査士会)

 

 本研究は近世由来の道路利用慣行(軒下地)が、近世から近代において道路と私有地の間の官民地境界に与えた影響を検討したものである。「軒下地」とはわが国の歴史的な都市域内における公の道路と私有地との境界領域を構成する道路利用慣行で、近代に入って道路狭あい化の克服のため「軒切り」が行われたとされている。先行研究としては大都市の事例が中心で、地方都市は俎上に上がっていなかったが、本研究において一地方都市である大津においても軒下地が存在し、大正期に至るまで事実上放置されていたことが明らかとなった。

 いわゆる「大津百町」においては、町絵図、地籍図類の現存状況が良好で、特に大津代官の指示のもと元禄8年(1695)に一斉に作製された町絵図については、百町の内、76町にて今回現存が確認できた。そこで町絵図及び地籍図類のデータベース化と、記載された一筆単位の情報の整理を行った。町絵図の記載情報によると大津の軒下地は凡そ二尺から三尺程度の幅であり、都市構造や道路幅、溝等との明確な相関関係は見られなかった。名称については西日本では「軒下」と表記されているのに対し、江戸では「庇」と表記されるケースが一般的だが、大津においては「軒下」の他に「庇下」「軒通」といった表記も数多く見られるなど、道路利用慣行としてはほぼ全町的確立はしていたものの、名称については統一されたものでなかったことが確認できた。

 このように大津において軒下地慣行は元禄期には確立していたが、明治維新を経て、近代的土地所有権が導入され、官民地の区分の明確化が行われる過程において是認されてきた利用慣行を画一的に排除することが迫られた。しかし、明治新政府の交通政策が鉄道に傾斜し、道路管理については「河港道路修築規則」「道路掃除ノ条目」「道路ノ等級ヲ廢シ國道縣道里道ヲ定ム」といった近世法の域を出ない法体系のまま大正期を迎えたことから、近世以前の利用慣行が排除されないまま生き残ったのである。また、大津においては近世を通じて道路幅の変化がないことから、軒下地は道路を占用する権利としての面と、共同体的な規制とが混じって実質的に建築制限線の役割を果たしており、輪をかけて利用慣行の解消は捗らなかった。

 しかし、そうした条件下においても軒下地の私的占有を制限し、その解消を目論んだ布達や条例を大津(滋賀県)では明治17年(1884年)より整備し始めるが、それでも市民側は狡猾に抜け道を確保し、進捗は芳しくなかった。しかし、政府にとって明治期からの課題であった道路に関しての近代法規である旧道路法が大正8年(1919年)に成立し、同時に定められた関連法規の道路構造令によって、規定された幅員の確保が厳密に求められるようになり、軒下地の解消が俄然進むこととなる。その遠因としては自動車台数の増加など交通事情の変化はあるものの、独自に事業実施が可能な大都市と違い、一地方都市である大津においては国レベルでの法整備とそれに伴う財政的措置という状況の変化が決定打となったといえる。また、「軒切り」の具体的な事例として旧北国街道が通過している大津市尾花川地区を取り上げ考察を行った。同地区では軒下地の解消の過程において、県道の有効幅員の条件を満たすことが迫られたこともあり、行政側が従前からの軒下地に関する解釈の変更を行い軒下地と私有地との境界線を変化させることによって、手間と費用の必要な用地買収を避けつつ道路整備を進めるという強権的な様子がみられた。

 軒下地に代表される道路利用慣行は明治期に入って、近代的土地所有権の確立と同時に単純に一掃されたわけではない。官民地境界も慣行や法制等の社会の変化に影響を受け、変動してきた歴史的な存在であるといえる。

         

                                             以上

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