菅浦文書が新たに国宝に指定―中世の土地境界争いを描いた絵図資料―

 今週金曜日、長浜市にとっても大変喜ばしいニュースが飛び込んできました。

長浜市西浅井町菅浦地区に伝わる「菅浦文書」が重要文化財から昇格し、ついに国宝指定される、というニュースです。

 

 菅浦文書の特筆すべき点としては、その量もさることながら、土地家屋調査士としては切っても切れない「土地境界」に大変縁が深い文書でもある点です。境界争いの資料として作成された絵図「菅浦与大浦下庄堺絵図」一幅が文書に含まれており、地元の長浜市関係ということもありますが、以前より個人的には大変関心を寄せてきました。

 

 上の新聞記事において「菅浦与大浦下庄堺絵図」が真ん中に掲載されていますね。明らかに実際とは違って、図下部の竹生島が不自然なまでに大きく描かれています。これは菅浦地区が隣の大浦地区との訴訟に勝利せんがため、自らを力を誇示するべく、竹生島=比叡山という当時の権威と大変近しい関係であることをアピールした絵図と言われています。なんとなく、今日の境界紛争事件でもあり得そうな図式ですよね。 なお、私も実物は長浜市長浜城歴史博物館の展示会にて拝見したこともありますが、絵図そのものは案外と小さいものでした。

 

 なお、当の菅浦地区については集落の雰囲気が隠れ里的な落ち着きがあり、その空気感が好きで私も子どものころから何度も訪問しています。妙に観光地化していないところがとてもいいです。私の母が学生の時には菅浦地区の子供たちは舟を使って学校に通っていたそうですが、そんな昔話もすんなり受け入れられるような心安らぐ集落です。

 

 皆さん、長浜市に、また、菅浦地区にぜひお越しください!あまりうれしい称号ではないかもしれませんが、本邦最古?の土地境界紛争の現場跡が廻れます。

下記に長浜市役所のサイトから菅浦文書の説明文を転載させていただきます。

 

西浅井町菅浦は、日本史の中で惣村(そうそん)(中世の村落共同体)を語る際に、必ず登場する村です。その歴史は、平安時代から江戸時代に至る文書群「菅浦文書」や、共に伝来した大浦庄(おおうらのしょう)との境界を明示した「絵図」から知られ、国の重要文化財に指定されています。

 

中世(鎌倉・室町時代)の村の状況を伝える「菅浦文書(すがうらもんじょ)」は、大正5年・6年に、同村に伝来した「開けずの箱」から発見されたと言われています。それ以後、多くの研究者によって論文が発表され、一集落の研究としては、日本でもずば抜けて多い業績が蓄積さています。 

 

中世の菅浦では、村人が20人の乙名衆(おとなしゅう)(責任者)を中心に、高度な自治を保っていたことが知られています。たとえば、寛正2年(1461)の村掟(むらおきて)置文(おきぶみ)では、盗人が出た場合、私的な思いで犯人を断定するのではなく、証拠に基づいた裁判を行うことが定められました。また、文明(ぶんめい)15年(1479)の村掟では、父親が犯罪者であっても、その罪を子まで及ぼしてはならないこと(縁座の否定)が規定されています。このように、菅浦は自検断(じけんだん)(警察権や裁判権を所持すること)の村であったのです。

 

菅浦の自治を支えた要因の一つが、日指(ひざし)・諸河(もろかわ)(大浦と菅浦の間にある田地)をめぐっての隣村・大浦との争いでした。この相論は、実に鎌倉後期から室町中期まで約二世紀に及んでいます。そこでは、大浦が菅浦を大浦庄(おおうらのしょう)の一名(いちみょう)(一部)と主張していたのに対し、菅浦は最初から大浦との境界をめぐる堺相論と主張(日指(ひざし)・諸河(もろかわ)は菅浦領内となる)、両村の正当性の論理が根本的に異なっていました。この堺相論を通して、菅浦の住民の団結力は、より強固なものになっていったのです。

 

しかし、天文年間(てんもんねんかん)(1532~1555)には、菅浦も戦国大名浅井氏の統治を受けるようになります。従来の庄園領主(しょうえんりょうしゅ)等とは異なり、浅井氏は北近江に本拠を構える地域権力であったので、菅浦の自治は制限されていきました。しかし、中世菅浦の自治制度の一部は、確実に江戸時代や近代の村に引き継がれていったのです。

 

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