ブラタモリ、ついに彦根へやってきました!
先週金曜日(12/8)に放映がありました。拝聴された方も多いと思いますが、準地元の彦根ということでいつも以上に興味深く見させていただきました。
NHK大河ドラマも佳境ですから、最後の番組宣伝的な要素は強いようにも思いました。が、それはさておき、せっかくですので彦根市内の番組で紹介されていたポイントに仕事の合間を使って早速行ってきましたたので簡単にご報告です。
番組では「城の南に流れるまっすぐな川と、立派な屋敷に秘められた家康の思いとは?」ということで、彦根城の南側に位置する足軽屋敷群が紹介されていましたが、そこできれいに交差しない道路と辻番所について解説がありました。
私もこの足軽屋敷(善利組・旧磯島家住宅)の存在自体は知ってはいましたが、それらが位置しています彦根市芹橋二丁目周辺(下記の地図赤色の円内)は道路幅が狭いこともあり、なかなか自動車では足が向きませんでした。当然観光客は手前のキャッスルロードまでで回遊される図式でして、いつもはたいへん静かな住宅街です。今回番組で取り上げていただきましたので、今さらながらですが、重い腰を上げて訪問することができました。
まずは、番組で紹介のあった建物のご紹介です
(彦根市役所HPより抜粋です)
旧彦根藩足軽組辻番所(善利組)
・市指定 平成21年2月13日
・所在地 芹橋二丁目
・所有者 彦根市
・時代 江戸(後期)
善利組・旧磯島家住宅は、旧芹橋12丁目の中央、中辻通りと交差する北西隅に位置し、その前庭の南端には、見張り窓を設けた辻番所と称する建造物が存在します。
見張り窓は2方向の通りに面して2箇所に設けられており、見通しが良いように番所が通りに若干張り出しています。現地調査では、主屋を経由することなく通りから直接番所に入るようになっており、通りの辻の要所に番所を配して、城下への人の出入りをチェックしていたと考えられます。
因みに足軽の鉄砲組と弓組の総数は37組であり、辻番所も37棟存在した可能性が考えられます。彼らは組単位に集住するように屋敷を割り当てられており、各組ごとに辻番所1棟が宛がわれ、交代で辻番の業務に就いたと推測されます。
この辻番所は現存唯一の施設として貴重であり、足軽屋敷の機能や足軽の日常的な業務を考える上でも重要な歴史的建造物です。
で、何故この番所前の道路、きれいに道路が交差しないのか。その訳は上記の紹介文にもあるように、辻番所の建物の中からでも通りを見渡し、四方を監視しやすくする意味があるとのことでした。ただ、実際には車一台がようやく通過できるような一間幅の道路ですし、足軽屋敷しかないような、今日でいうところの住居専用地域にふらふらと不審者が足を踏み入れるようなことは考えにくいのですが…。
設計がそもそも大阪城の攻防戦前のものですから、戦時体制下のちょっと異常なまでの緊張状態を反映したものなのでしょうね。
そういえば、滋賀県大津市(旧大津百町)でも「番所」があることを思い出しました。正確に言うと、大津の場合は「番所」ではなく「番屋」です。字面から、なんとなく大津の方が城下町の彦根より軍事目的の意味合いがワンランク落ちるような感じがしますが、いかがでしょうか。
上記は大津市猟師町(現在の大津市中央3丁目付近)、法務局で取得できる和紙公図です。
左に道路側に西に突き出た区画が番屋の跡地です。それが番屋の跡地であることについては元禄八年の町絵図に記載がありますので、間違いありません。(併せて元禄絵図も掲載させていただいた方が対照できて理解しやすいと思いますが、許諾の都合で載せません。興味のある方は滋賀県立図書館デジタル歴史街道をご覧ください)
さらに、この番屋跡の西側には同じく玉屋町側に属する横町(道)が存在します。道路中心部で町同士が折半しているケースです。ですから道路幅は単純に言いますとこの和紙公図の倍あります。また、張り合うように猟師町側の番屋の真向いの玉屋町側には町用人の詰所がありますが、これは今も自治会館用地として存続しています。
下記の写真は大津市猟師町の番屋跡を南から撮影した写真です。右の奥が番屋跡の地割を引きついたと思われる茶色の建物が建っています。撮影したのは3年ほど前ですが、道路が急激に狭くなっているのが非常によく分かりますね。左側の玉屋町側には曳山を格納している倉がみえます。
実は、大津百町の他の町でも元禄八年時点では「番屋」と記載された地割が多くの町で確認できます。しかし、時代が下って明治初期に作製された地券取調総絵図でそのポイントを見ますと番屋は敷地ごと整理されてしまったのか、他の土地と合筆されたりしていて地割上では確認できない町も沢山でてきます。ちなみに何故「合筆」か、といいますと、もともと番屋一つ一つの敷地面積は小さく、例えば猟師町では11坪(約36㎡)で、一個の宅地にしては小さすぎるからです。
平和な時代が続いたことで治安対策としての番屋の役割が低下したからか、通りに突き出た番屋の敷地が往来の邪魔になったしまったからか、理由は定かではありません。彦根の場合は足軽に役割(仕事)を与えるという、授産的な意味はあったのでしょうが、大津は基本的に商人の町ですから、不要なものは整理してしまおうといった、実利重視であっさりしているのかもしれませんね。
その点、この猟師町の事例は公図上もはっきり確認できる貴重なものであり、現地の地割もきれいに確認でき、さらに地上建物も存在していたことから番屋のイメージも湧きやすかったのですが、実は最近取り壊されてしまい、コインパーキングに変わってしまいました。建物自体はそれほど立派なものではなかったようでしたし、これも時代の流れで仕方ないのかもしれません。ただ地割はそれなりに残っていますので、そこは救いですかね。
ともあれ、このように番所や番屋の跡地は道路に不自然に突き出る形で現在も地割として存在しています。彦根のケースは現地でも、明治の古絵図をみても実はさほどではないのですが、大津の事例がそうであるように道路幅が急に狭くなっているような箇所は番所や番屋の名残なのかもしれません。合筆などで番所や番屋の地割自体は消えていても、道路との関係性を探っていくと、その土地の来歴がわかることもあるのではないでしょうか。