私の周りでは「絵図」と「地図」は一体何がどう違うのか、またいつから「絵図」は「地図」になったのか、といったような議論?が時折みられます
一般的には、不正確で、古い時代の地図のことを絵図、逆に地図とは近代的な測量結果を表した正確なもの、というような理解が多いかと思います(ついでに言えば「古地図」という表現もあります)
例えば、土地家屋調査士も現場立会などで関係者の方が持参された資料を指して「この『絵図』は古いものですから、境界の確認にはあまり参考になりません」などと言ったりしています
先日の歴史地理学会の公開講演会で下記のテーマの講演がありました
「ある民間地図製作者の軌跡―横山大観の父酒井捨彦―」、報告をされたのは小野寺淳茨城大教授です
横山大観は多くの日本人に知られた、最も著名な画家の一人ですよね
その父親が酒井捨彦といい、水戸藩士として弘道館天文地理局に学び、伊能図の作成にも貢献した製図家のようです また酒井の一族は数代にわたり、多くの方が水戸藩の地図製作にかかわっていた地図一家みたいですね そこから母方の親戚である横山家に養子となったのが横山大観(本名横山秀麿)だそうです
横山大観の父、酒井捨彦は明治維新後に上京し、民間人として、当時需要のあった銅板の国図を刊行していたとのことです(明治32年3月の府県制度改正まで、国図の需要は高かったみたいです)
さらに、その源流をたどると日本地図『日本輿地路程全図』を作成した江戸時代の地理学者である長久保赤水にも繋がっていくとのことでした
お話をお聞きして「絵図」と「地図」の関係性について、こうやって実際に地図作製にかかわった当時の人物に光をあて、紐解いていく考え方も斬新で面白い発想だな、と思いました
例えば、明治初期には同じ人物が描いた「絵図」と「地図」があるわけです それぞれ製作意図は違えども、製作者が同じであるのに、本質的な違いなど、実はあまりないのではないでしょうか
参考までに滋賀県東浅井郡内の某村(現滋賀県長浜市)の「台帳下絵図」なるものの一部を下に掲載しておきます 「明治22年3月28日」と日付がありますので、明治22年の土地台帳制度導入に伴って、実際に調査に利用した下図かもしれません 土地台帳は現在でも法務局で閲覧できますが、その土地台帳規則の制定に至る、その時点においてもなお「絵図」と呼称しているあたり、中々興味深いと思いました
そういわれれば、地籍図は彩色もきれいで、美術品としてもなかなかのものだ、と予てより思っていましたが、横山大観が描いた作品にも、そうした絵図・地図作りの素養が生かされていたのかもしれませんね